東京・港区芝という都会のイメージとは一見異なる、昔ながらの建物が残る細い路地を歩いていくと、木の格子が懐かしい雰囲気を醸し出した建物「芝の家」が見えてくる。
芝の家は、「昭和の地域力発見事業拠点」として、港区芝地区総合支所と慶應義塾大学との協働で取り組んでいる事業。2008年10月から始まり、約2年半が経つ。「家」と名前はついているが、誰かが住んでいるという訳ではない。月、火、木曜日はコミュニティカフェ、水、金、土曜日は地域のあそびばとして開放される。誰でも出入り自由の場である。
なんだか懐かしい雰囲気の外観
次から次へと訪れて、寛いでいく人々
私がお伺いした日、次から次へと色々な人たちが芝の家を訪れた。
・パッチワークをやりにきた女性4人グループ
・コーヒーを飲んでピアノを弾く作業着姿のおじちゃん
・おもちゃで遊ぶ幼稚園の子ども2人とお母さん
・試験前にボーっとしている高校生の男の子
・お弁当を食べに来た近所に勤める会社員
次から次へと様々な人が
ごはんをもらいに散歩中のワンちゃんまで遊びに来た!
何度も来ているという人がほとんどかと思えば、今日が初めてという人も意外に多い。でも、それとなく誰かが人を紹介してくれたりして、しばらくすると場に馴染んでいる。
初めて来た私も最初は緊張したものの、まわりの人たちの温かい雰囲気で、あっという間に座布団の上で寛いでしまった。下手をしたら昼寝をしてしまいそうなゆったりした気分だ。と思っていたら、スタッフの方が「昼寝する人もいるので気になさらないで下さいね」とおっしゃる(笑)。建物の雰囲気も手伝ってか、おばあちゃんの家に遊びに来たような感覚に一瞬陥ってしまう。
様々につながる人々
私たちが滞在したわずか数時間の間にも、10人以上の人が出入りしていた。統計のある最近の半年(2010年4月~9月)では、4,677人の方が訪れてたとのこと。なんと一日あたり約30人!はじめの半年(2008年10月~2009年3月)では1,768人だったとのことなので、その増加ぶりにはちょっとびっくりする。
訪れる人数の増加もさることながら、芝の家が興味深いのは、集う人自らが、さまざまな地域活動を自分たちで巻き起こしていること。3~10人くらいの小さなグループが中心となり、芝の家での縁がもとで、自然発生的に立ち上がっている。
例えばこんなプロジェクトが・・・
・近所の子どもからお年寄りまで、花や鉢植えを育てて近所の軒先にそれを置いていくという「コミュニティ菜園プロジェクト」
・近所付き合いを支えるソーシャルメディアの新しい形を考える「つながるご近所プロジェクト」
・親だけでなく、地域の人が子どもに関心を持ち、お互いつながっていく仕組みづくりをめざす「芝でこそ:芝で子育てしたくなるまちづくりプロジェクト」
芝の家に掛けられた、つながるご近所プロジェクトの「お互いさま掲示板」
参加している人は、近くに住む主婦の人やシニアの方、はたまた会社員や学生、留学生の方まで。世代も性別も職業も国籍もさまざまな人たちが日常的にここではつながって、地域のコミュニティーに少しずつ変化を起こしているようだ。
しかし、何故こんなことがこの場では起こってしまうのだろうか。
なぜここに集まるのか?
芝の家にいらしていた方にお話を伺ってみた。
すぐ近くに昔から住むHさん(女性40代)は「この場は何かをやっているわけじゃないから、初めは不思議な場所だなぁと思って来たの」。「でも、どんな風に居てもいいから、和ませてもらってるの」と、芝の家の軒先の植木鉢を自由に手入れしている。
学校帰りの高校生のGくん(男性10代)は、おやつをつまみながら明日のテストの話をしながら「疲れちゃったんで、ちょっと休みに来ました」。先ほどのHさんが「あら、久しぶりじゃない。どうしたの」と声を掛け、おしゃべりを始める。
となり街に住むMさん(女性60代)は「家の仕事からちょっと逃げてきたの(笑)」と、来ている人たちと世間話に興じる。
のんびりとお茶をしながら
あえて”何もない”
「芝の家」の興味深いところは、その”待ちの姿勢”にある。
「地域力発見事業拠点」と聞くと、いろんな仕掛けのある大げさな光景を想像するかもしれない。しかし、先ほどのHさんの話にもあった通り、ここには何もない。普段、何かをやっている訳ではなく、居心地よくお茶を飲める場であるだけだ。最初に来る人は、「ここは何の場所か」と不思議に思う人も多いらしい。
ここに来るのに何の条件も要らないし、どんな風に過ごしてもいい。何かを始めることも、何もしないことも、各人の自由に委ねられている。そういう意味で、この場はまさに「家」という表現がぴったりとも言える。
目的を設けないことで創造性が生まれる
「芝の家」のプロジェクトファシリテーターを務める坂倉杏介さんは、立ち上げ時の試行錯誤を振り返りながら「対象や事業内容を定めて取り組むことは、コミュニティーを育てることにはならないと考えました」と言う。
なるほど、である。
何かプロジェクトを始めるとなると、目的が定められて、何に対して、何を実施するのかについて計画が練られるのが、普通の発想である。でも、坂倉さんはそこから「価値の大転換をした」のだという。コミュニティーを相手にするということは、日常のひとつひとつの人間関係そのもの。そこに、目的や対象や内容は定められないというのだ。
「場に目的性を設定しないと、逆説的なのですが、色々な動きが次々と起こってきたのです」
何とも面白い逆説である。”ない”ことが、逆に人々の創造性を引き出す、とは。坂倉さんの言葉からは、人々の自発性と創造性の可能性を信じる強い信念が見えた。
「皆さん意外に一人ひとりの自発性を過小評価しているのではないでしょうか。一人ひとりがその人らしくいられて、お互いを尊重していけば、自然に何かが起こってくるものなのだと思います」(坂倉さん)
集う人自らがありたいようにいることを、ゆっくりと温かく見守ってくれるこの雰囲気は、場と人々の可能性に対する坂倉さんの強い信頼があってこそなのだろうと感じた。
プロジェクトファシリテーターの坂倉さん。横切るおじいさんと縁側越しにおしゃべり
ルールではなく価値を共有する
集う人を温かく見守る「芝の家」の運営は、ぱっと見た目には目立たないが、様々な工夫がこらされている。
特徴的なのは、朝と夕方にもたれるスタッフミーティング。朝には、一人ひとりが「今日どんな風にここに居たいのか」スタッフ同士が共有し、夕方には1日でどんなことを感じたのか振り返るのだ。これが、スタッフ自身がまず「居たい風にこの場に居る」ことにつながり、その空気が場にも流れる。一見地道なこの日々の積み重ねだが、これが芝の家の肝になっているに違いない。「作っているのはルールではなくて、この場の文化」と坂倉さんは言う。
芝の家は何を大事にする場なのか。様々な出来事にどうやって対応していくのか。ゆっくりと、でもしっかりとその価値観の礎がスタッフと訪れる人の間に作られていく。ルールで縛られるのではなく、この場の価値を共有して協働する。
そんな関係性が作られるのだ。
地域コミュニティーの力が弱くなっていると言われる昨今。でも、一人ひとりの創造性と自発性を信じること、それを生み出す場の力があれば、もっと豊かで、楽で、楽しいコミュニティーにつながっていける。芝の家は、日本中で行われている街づくりや地域コミュニティー再生の取り組みに、さらには私たち自身の日々の暮らしに、静かだけれども大事なヒントを教えてくれているように思う。【了】
文責:伊藤直子
芝の家の玄関のお花